技術開発史
世界中で、また多岐にわたる分野で、五十嵐電機製作所のモーターは活躍しています。
その歴史と技術力について現会長の五十嵐一治が語らせて頂きます。
その歴史と技術力について現会長の五十嵐一治が語らせて頂きます。
焼け野原で見つけた”スピーカー”から、五十嵐の歴史は始まった
ラジオのスピーカーに使われている磁石を使って…
五十嵐電機製作所の創業者である五十嵐栄治は、戦時中は軍需企業の技術者として東芝で働いていました。やがて迎えた終戦。栄治は、これまで自分のやってきたことがすべて水泡に帰したと考え、会社を辞めます。
焼け野原となった街中を歩く栄治。すると、がれきの中に焼け残ったラジオのスピーカーを発見します。スピーカーの中には、磁石が使われています。これを使って、これまで自分が培ってきた技術で何か作れないだろうか。栄治はそのラジオのスピーカーを持ち帰りました。
焼け野原となった街中を歩く栄治。すると、がれきの中に焼け残ったラジオのスピーカーを発見します。スピーカーの中には、磁石が使われています。これを使って、これまで自分が培ってきた技術で何か作れないだろうか。栄治はそのラジオのスピーカーを持ち帰りました。
最初の製品は、木製玩具のボート用モータ
持ち帰ったラジオのスピーカーから磁石を取り出すと、銅線を巻き簡易的なモーターを作成しました。これを問屋に持って行くと、サイズや出力から模型や玩具用のモーターにピッタリだと。こうして生まれたのが、五十嵐電機製作所の最初の製品、木製のボート玩具用のモーターでした。
商品は当時、日本にいた進駐軍の米兵がアメリカに戻る際のお土産としてたくさん売れました。
商品は当時、日本にいた進駐軍の米兵がアメリカに戻る際のお土産としてたくさん売れました。
海外、自動車産業への進出
ストロンベッカーとの出会い
創成期の五十嵐電機製作所では、主にフリクション玩具に使われる小型モーターを開発していました。これに目をつけたのが、当時アメリカ・シカゴでプラモデルやレーシングカーのモーターを扱っていた商社「ストロンベッカー」でした。 ストロンベッカーは、多くのサンプルを提供してくれました。当時アメリカで流行していたレーシングカーのモーターを持ち込んでは、「これを五十嵐でつくれないか」「小型化してほしい」などの要望を出し、それに応えてきました。このとき培った技術は現在、五十嵐電機製作所のメイン分野となっている自動車産業でも生かされています。
ポラロイドカメラのモーターを独占!
コンペで五十嵐のモーターが採用
1970年代に一世を風靡した「ポラロイドカメラ」。このカメラに使われていたモーターを、五十嵐電機製作所がほぼ独占していた時期がありました。
日本のモーター技術が優れていることを知っていたポラロイドは、五十嵐をはじめ国内の4社に図面を渡し、サンプルのモーターを作らせました。その結果、採用されたのが五十嵐電機製作所のモーター。これを受けて当時、柏崎工場ではポラロイドカメラのラインを何本もつくり、作っても作っても間に合わないほど多くのモーターを提供しました。
日本のモーター技術が優れていることを知っていたポラロイドは、五十嵐をはじめ国内の4社に図面を渡し、サンプルのモーターを作らせました。その結果、採用されたのが五十嵐電機製作所のモーター。これを受けて当時、柏崎工場ではポラロイドカメラのラインを何本もつくり、作っても作っても間に合わないほど多くのモーターを提供しました。
技術者も営業も、全社一丸となって商品をつくりあげていく
技術を継承していくために
顧客のニーズに対して試作を繰り返し、注文に結び付けていく。五十嵐電機製作所のこの体制は、創業当初から70年経過した今に至るまで続いています。
前代表取締役社長で現会長の五十嵐一治は、「技術者同士のミーティングではリーダーを中心に、みんなが知恵を出し、議論を行い、試作を繰り返しながら顧客が求めるものに近づけていく。そのなかで、若い技術者が育っていく」と技術継承について語ったうえで、「技術者も営業も一丸となって、顧客や社員のために商品をつくっていこうという全社一丸の姿勢も大切。アイデアを出したり、情報共有をしたり全員ができる環境が五十嵐にはある」と、70年続くものづくり現場の秘訣を述べています。
前代表取締役社長で現会長の五十嵐一治は、「技術者同士のミーティングではリーダーを中心に、みんなが知恵を出し、議論を行い、試作を繰り返しながら顧客が求めるものに近づけていく。そのなかで、若い技術者が育っていく」と技術継承について語ったうえで、「技術者も営業も一丸となって、顧客や社員のために商品をつくっていこうという全社一丸の姿勢も大切。アイデアを出したり、情報共有をしたり全員ができる環境が五十嵐にはある」と、70年続くものづくり現場の秘訣を述べています。